2月の証(あかし)~「私の友達」 kmeさん~

♪新聖歌209 「いつくしみ深き」(1) 

いつくしみ深き 友なるイエスは 罪 咎 憂いを 取り去り給う

     心の嘆きを 包まず述べて などかは降ろさぬ 負える重荷を

私にはあるクリスチャンの友達がいます。何でも安心して話せて、しばらく会わなくても会えばまたすぐに心を開ける存在です。彼女は話をする前や後、また話の途中でもよく祈るので、私は神様への祈りが日常の中にある生き方を学びました。また、どんなことがあってもイエス様の十字架を見上げ続けるなら、神様の方法でもう一度立ち上がらせて下さる希望も受け取りました。神様は私に、時には一緒に泣き笑い、いつも相手の祝福と成長を願って祈り合える信仰の友達を与えて下さいました。

こんな友と出会えたのは、私が何かできるとか優れているからではなく、ただ主の恵みとご計画ゆえです。私は子どもの頃から引越しが多く、誰かと仲良くなっても、離れて時間がたてば忘れていくことの繰り返しでした。だから人間関係はその場かぎりという感覚がありました。でも神様が彼女を通して、主にある友達という存在がどんなに喜びで恵みであるか教えて下さったのです。そうして私は次第に、イエス様が「友」であるという事実が、どれほど素晴らしいことなのかも見えようになってきました。

イエス様の言葉に「わたしはあなたがたを友と呼びました。(ヨハネの福音書1515)というのがあります。友達とはお互いがそう思わないと成立しないし、自分とあまりに違いすぎる相手と友達になるのはなかなか難しいことです。神様と人間が対等になれるはずはないし、人間が神様に差し上げられるものなんて、ないに等しいと言えます。

それでも神の子であるイエス様は私たちを親しく「友」と呼んでくださいます。そしてただ呼ぶだけではなく、イエス様は人間となって私たちの所に降りてきてくださり、私たちの罪の身代わりに十字架で死なれ、復活して、神様と私たち人間との懸け橋となってくださったのです。「人が友のために命を捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(ヨハネの福音書1513)の御言葉を体現されたのです。

イエス様は私の心にある醜さや弱さも全て知りながら、それでも「友」と呼んでくださり、どんな状況でも、何があっても変わらずに愛して共にいて下さるお方です。どんなことでも打ち明けて重荷を下ろすことができます。こんな素晴らしい友は世界中どこを探しても他にはいません!

私は自分がいかに自己中心的な人間であるかを実感しています。大切な友達や家族のことも、いざとなったら裏切るかもしれない。クリスチャンであることで不利益を被りそうなとき、クリスチャンじゃない振りをするかもしれない。私を「友」と呼んでくださるイエス様を悲しませたくないし、友達や家族を大切にしていきたいのに、自己中心的な心から行動することが多々あります。だからもっと主(神様)に従う信仰が与えられるように求め、聖霊様に導かれて日々の歩みや選択ができるように祈っていきたいです。

あなたもイエス様を友として歩みませんか?