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◎神様に励まされた証

私は神様に仕え歩ませていただいています。神様のみこころを一足一足歩むだけなんだと思いながらも、時々、これでよいのか?人も救われない、人も育たない、みたいなマイナスな思いでした。ただ、神様と共に、神様の御言葉に歩み、御言葉の種をコツコツと握りながらですが、目先のことや承認欲求に近い思いがきていました。

ある時、ある小学校教師の証を目にしました。その姉妹は教師として働きながら、教会で積極的に仕えていた時に、自分がもっと頑張り、奉仕しようと奮起したそうです。ある時、教会学校の教師もしていまして教会学校心得10か条を読んだときに、神のためと言いながら、姉妹の働きが自分の手柄にしていたことに気づき、思いを変えて、見えずとも種を蒔き続ける歩みの大切さ、謙遜さに気づき歩み始めました。

私はその証と、時が良くても悪くても福音を伝える歩み、誰かが種を蒔き、誰かが収穫し、すべてを導くのは神様であること※を覚えました。

虚しさ、やるせなさ、こんなにやってる…マイナスな思いは自分ばかり見ている自己中心からだと悔い改めました。それからは、少しずつ、見られない歩みでも、見える歩みでも、捧げる喜び、させていただく感謝を神様はくださいました。

どんなことも神様に対してすること。どんなことも神様は見ていて報いて下さるお方。どんなこともへりくだり、低くして歩む尊さ、に気づかせてくださいました。人の証は、私を御言葉に近づけてくれる力だと感じて感謝します。

神様と、神様と歩んだたくさんの兄弟姉妹の証に感謝し、私たちの教会も生き生きした教会になりたいと祈っています。

 

※参考

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」(テモテへの手紙第二4章2節)

私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。」(コリント人への手紙3章6節)

こういうわけで、『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る』ということわざは、ほんとうなのです。」(ヨハネの福音書4章37節)

◎神様に励まされた証

私は、洗礼から29年のクリスチャンです。受難週に向かうシーズンに自分の歩みを思っていました。人々の救いを思いながら「私は何をしているのか」という思いが来ました。

私はキリスト教系の職場で4年間働きました。週3回の朝礼では、讃美歌や聖書のお話を聞いていました。クリスチャンや牧師先生との関わりもありました。その4年では、これだけ聞いても触れても「イエス様」「十字架」を意識したことはありませんでした。

その後、クリスチャンの夫と出会い、試練を通して信仰を持ちました。それを思い出しながら、キリスト教系職場の4年間の多くの方々の祈りや宣教は一つも無駄ではなく、それが後に実を結んだことを改めて受け取りました。

特別なことが起きない日々の祈りや宣教も、虚しく思えても尊いことを思いました。聖書を思い起こしました。

善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」ガラテヤ人への手紙6章9節

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」テモテへの手紙第二4章2節

私たちの日々は、尊く、無駄な日はないことを覚えて、改めて生かされている意味に励まされました。

◎神様の備えを体験した証

私たち夫婦は、夫が仕事をしながら、私たちの教会の牧師のご指導を受けながら、信徒で開拓伝道を始めました。そのうちに、伝道師、牧師へと歩みました。夫は神様大好きで一途なリーダーでした。その夫は、いつも周りの牧師先生方や私たちの教会、他教会とのやりとり、コンタクトを私にばかりさせるので、私は不満を持っていました。時々私は「私ばかり連絡したり、連絡を受けたり。自分でもしてほしい」とつぶやいていました。

今、開拓から25年ほどになりまして、神様の深い備えを覚えています。夫は4年前に天に帰りました。私がバトンを受け取り歩んでいます。たくさんのクリスチャンや牧師先生たちに助けられ、神の家族の交わりを持たせていただいています。皆さんに感謝しています。

もし、夫が何でも自分で周りとやりとりをしていましたら、私は今のような牧師先生たちとの集まりは億劫であり、苦痛であり、孤立していたかもしれません。牧師先生たちに愛情深さもあるからですが、家族のように集い、話し、祈りあえています。

また、夫がいつも国内外の集会や学びに私を連れて行ってくれたことも、今のための備えであったと覚えます。その時は、恥ずかしいくらいに理解できなかったり、不平不満を覚えることでさえ、神様は先の備えとして用いて下さるお方であることに感謝します。また、人知を越えた備えを賛美します。

まさしく、聖書に書いてあるとおりです。『目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神が備えてくださったものは、みなそうである。」コリント人への手紙第一2章9節

◎癒しを体験した証

右膝の調子が悪く痛みがありました。それで礼拝後に癒しを祈ってもらいました。しばらくして膝の痛みがなくなりました。その日は午後から教会案内をポスティングする予定でした。最初は参加するつもりはありませんでしたが、行ってみようという思いになり、参加しました。一緒に行った方が驚くほど歩き回りポスティングすることができました。その後疲れは出ましたが、それも癒されました。

◎神様を体験した証

先日、たまたま教会でウナギの話になりました。ウナギが食べたいなぁ、でも高いしなぁと思っていました。その二日後、応募したのを忘れていた懸賞のウナギが当選して送られてきました。神様が私たちの話を聞いていて、願いも聞いてくれた!と感謝でした。

2026年もどうぞよろしくお願いいたします。

オイコスチャーチ目標

「福音に堅く立ち、聖霊様と共に、福音(御言葉)を周りに伝えましょう」

(コリント人への手紙第一3章11節)というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。

(使徒の働き18章9~10節)ある夜、主は幻によってパウロに、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから」と言われた。

(マタイの福音書28章19~20節)それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

(ガラテヤ人への手紙5章16節私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

◎主に立ち返った証

私は先日、主から罪を示されました。失敗はよくするのですが、それは失敗ではなく罪であると示されました。神様に誠実に生きたいと願っていた私はショックで、日々の祈りもできなくなりました。

でもその祈れない状態は、サタンに支配されていたと気づきました。そして、悔い改めれば、主は必ず導いて下さることに立ち返り、また信仰の一歩から始めました。

祈れなくなるほどの時は苦しかったですが、振り返れば、今回のことで、もっと主の愛を感じることができた恵みの体験でした。

◎癒しを体験した証

私は仕事柄、膝を使うことが多いのですが、今年、膝を痛めて、歩くのも困難になり、仕事を辞めることになりました。杖を使わないと歩けない状態になり、手術をする話にもなりました。

私は癒しを祈りつつ、できるだけリハビリに通い、祈祷会では牧師に油を塗って癒しの祈りをしてもらい、「弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ (イザヤ35:3) 」と宣言してもらいました。その中で徐々に痛みが消えていき、やがて杖なしでも普通に歩けるようになっていきました。

今、再び仕事に復帰しましたが、痛みもなく過ごせています。足も伸ばせなかった痛みがうそのようです。神様の癒しの恵みに感謝します。

◎家族の救いの証

昨年、認知症の母が体調を崩し、食事が食べられない日が続き、衰弱したため入院になりました。

教会の方々に祈ってもらい、入院から4日後に面会に行きました。母は少し食べられるようになっていましたが、ぼんやりした感じで話はかみ合いませんでした。

でも私は神様の愛と、イエス様の十字架の救いの話をし、母に「信じますか?」と聞くと、母はハッキリ「はい」と答えました。

救われた感謝のお祈りをするとき、母は手を組んでいました。

その後、母が明るい表情で「長生きしないとね」と言いました。それまではずっと「死にたい」と言っていたのです。

母が新しく生まれ、まことのいのちがあることがわかりました。今は健康も守られ、穏やかに日々を送っています。素晴らしい主をほめたたえます。

 ◎家族の救いの証

父が入院していましたが、今年の2月、意識レベルが低下したと家族が呼ばれて駆け付けました。

父は話せませんでしたが、話しかけると反応がありました。

私は父に、私たちは罪人であり、このままでは天国に行けない事、イエス様の十字架の救いと罪の赦しを受けたら天国に行けることを語りました。病院の処置により、父は意識を回復してきました。

私はその夜、教会で悔い改めに導かれました。そして牧師に、父との面会の時にどう導いたら良いかを教えてもらいました。

次の日、父にイエス様の十字架の救いを語り、導いたときに父は「はい」と受け入れました。その直後に看護師が病室に入ってきて、神様が救いのタイミングを守られたことを感じました。

その翌日、父との面会時に、昨日のことを覚えているか尋ねたら、父が「福音やろ」と言いました。私は「福音」という言葉を使っていなかったのに、その言葉が出たことに、父のうちにいる聖霊様の導きを感じました。すばらしい主に栄光をお返しします。

◎家族を通して神様を体験した二人の証

 

先日、施設に入所している父が外泊できることになりました。久しぶりに家族も集まり、父はとてもご機嫌で、よく話し、よく食べて過ごしました。翌日、父に大声で呼ばれ、「教会の方からもらった寄せ書きの色紙を読むように」とのことでした。父は耳が遠いので、私は大きな声で色紙に書かれた祝福や癒しの御言葉を読み上げました。奇しくもそれが、一緒にいた未信者の妹に聞かせる形になり、また実家の地域への宣言にもなりました。父のわがままに振り回されることも多いですが、神様はそんな父の性格も用いて、周りを祝福されるユニークで偉大なお方だと思いました。

 

子どものことで思い煩い、自分を責めたり、途方に暮れていました。でも教会に行って講壇の十字架の前で祈っていると、心に慰めと平安がきて「イエス様がいるから何があっても大丈夫だ」と元気になりました。 その後、子どもの状況は落ち着き、むしろ前より良くなりましたが、状況が良くなったから私が平安なのではなく、状況を主にゆだねたから平安に変えられたことが感謝でした。恵み深い主に感謝します。