聖書と映画2

 今回は、全米ナンバーワンの大ヒットを記録したと言われる「War room・・・祈りのちから」をご紹介します。日本人からすれば、こんな地味な映画なのに、何故大ヒット?と思われるかもしれませんが、この原作者は神に祈るということの本質を極めて良く熟知した人だなぁと個人的には感動しています。
人生にはどうしようもないことや、うまくいかないことが多々あります。しかし、祈りによって、私たちが修復不能と決めつけていた人間関係が回復され、神様からとてつもない幸せが訪れます。それを引き寄せる原動力は信仰による祈りです。
信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。(聖書 へブル書 11章1節)
 あらすじです。老婦人のクララは家族の思い出が詰まった家を売却することになり、不動産仲介業のエリザベスと出会います。エリザベスは仕事で実績をあげ、夫トニーと10歳ぐらいの女の子と豪華な家に住んでいます。夫トニーも薬品会社の営業マンとして成功し、かなりの高給取りのようです。一見、何の問題もない家族ですが、夫婦間の会話の欠如、浮気寸前の夫の行状、親子の断絶・・・家族関係崩壊の危機を迎えていました。クララはエリザベスとの会話から、この家族が抱える危機を敏感に察知します。同時に、エリザベスの信仰を建てあげ、祈りという武器を伝える為に、自分の戦いの部屋(War room)に案内するのです。それは、クララが数十年という長きにわたって祈りを続けてきた、彼女の祈りの部屋、ウォークインクローゼットでした。壁には祈り項目や、かなえられた祈りの膨大なメモが貼られています。
そしてクララは言います。
「赦すのよ!そうしない限り、神様からの赦しは来ないの・・」
「あなたは戦う敵を間違えている!」
「罪を告白するの。」
「祈りによって戦うのよ!」
狂信的にみえるクララの態度に、最初のうちはうとましく思っていたエリザベスでしたが、クララの真実性に次第に影響を受け、彼女は祈りはじめます。
聖書の教えに心がはげまされ、エリザベスは真の幸福を求めます。本当に戦うべき相手に気付き、祈りの戦士へと変えられていったのです。不思議なことにエリザベスの心が変わり始め、やがて彼女が語る言葉が変わり、行動も変えられていきます。すると、さらに不思議なことが起こりだします。娘の態度が変わってきました。やがて、夫も・・・。 筆者の眼からも涙が・・・。これ以上は、この映画を見てください。
多くの方々が夫婦間、親子間、友人間・・・といったありとあらゆる人間関係において悩んでいるように思われます。
「認め、認められる喜び」 「愛し、愛される喜び」を求めているにも関わらず、それを得ることが出来ずに傷つき苦しんでいることが多いのではないでしょうか?いったん人間関係がこわれてしまうと、自分の心もこわれてしまいます。しかし聖書には、あらゆる人間関係回復の知恵が書かれています。
キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、・・・(聖書 エペソ書 2章14節)
たとえ、様々な人間関係がバラバラになっても、平和の神様が両者を一つに回復して下さいます。聖書の神様は関係回復の神様でもあるからです。
真実の幸せや平和を求めているにも関わらず、夫婦関係、親子関係、友人関係、上司との関係・・・様々な関係において、傷つき疲れているあなた。今が、関係回復のその時です。当教会では、このような回復のお手伝いをしたいと考えております。
この映画に見られる祈りの力は本物です。祈りによるこのような喜びの体験は、実際に起こるのです。
尚、この映画はお近くのレンタルショップで、お借りになることが出来ます。ご覧になられた方は感想をお聞かせください。

「聖書と映画 ~ベンジャミン・バトン 数奇な人生~ 

ベンジャミン・バトン 数奇な人生」という映画を観ました。主人公は80歳の老人の肉体を持ってこの世に生を受けます。母親は主人公を出産してすぐ亡くなりますが、余りにも乳幼児離れした容貌に父親は驚愕し、子育ての自信を無くし、養老院の門前に主人公を置き去りにします。そこで働く黒人の女性に拾われて主人公はスクスクと成長していきます。彼は見た目は高齢者でしたが世間の好奇の目にさらされることもなく、日がな一日車椅子に座ったままでお年寄りに囲まれつつ幼少期を穏やかに過ごします。育ての母は熱心なクリスチャンでした。母が通う聖霊派のキリスト教会で牧師に癒しの祈りをしてもらったことが切っ掛けとなって、彼は車イスから立ち上がり、二本の杖歩行から一本の杖歩行へ移行し、次第に足が丈夫になっていきます。そして、年をとるたびに若返っていきます。水夫として大海原を渡り、真珠湾攻撃の戦火をくぐり抜け、彼は初老の男性から次第に初々しい若者へと変貌を遂げていきます。再び故郷に戻り、運命の人と結ばれ、娘をえます。幸せな家庭を築いていましたが、月日と共に妻が年老い娘も成長してくのに自分は益々若返っていく現実を憂い、彼は深く沈みこみます。このままでは愛する妻や子供に大変な負担をかけてしまうと思い悩んだ末、実の親から相続した全財産を妻に託して去っていくのです。十数年後、認知症の症状を呈する子供となってしまった主人公が発見されます。妻は彼を施設に引き取り介護を続けます。益々若返って乳幼児となってしまった主人公を年老いた妻は抱きかかえつつ最期を看取っていくのです。夫婦の愛、家族愛、そして、生きる喜びや死の悲しみについて考えさせる映画でした。我々の人生は労苦も多く、しかも、限りがあります。しかし、イエス・キリストは語られました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます(ヨハネ6:47)。」

「聖書と映画 ~大草原の小さな家~ 

 今回は「大草原の小さな家」を紹介します。このドラマはアメリカ開拓時代の理想的なクリスチャンホームを描いていますが、クリスチャンだからといって困難が全くない訳ではありません。あの時代にも、現在我々が体験する人間関係などの様々な問題は既に存在していたことがわかります。でも、主人公達は神を恐れつつ、祈りを持って、神と人に対して誠実に取り組んでいきます。聖書は言います。「昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。(伝道者の書1:9)」

彼らを取り巻く登場人物たちも中々個性的で魅力的です。近所に住む年老いたある母親が、せめて生きているうちに子供たちに会いたい孫たちに会いたいと嘆いています。会いに来てくれないならば、偽りのお葬式を開いて、物陰に隠れて彼らを見つめたいと切々と訴える為、主人公達は不本意ながら手を貸すことになります。お葬式の日が来ました。遺影を前にして長男と長女が語り合っています。「自分達は厳しい躾を受けてきた。お母さんのあの自信にうんざりしていた。だけど、いなくなってみるとさびしいものだ・・・」その会話を聞きながら母親は物陰で涙ぐんでいます。そこに、15年間音信不通だった次男が飛び込んでくるのです。母親は思わず姿を現し次男をしかりつけます。「手紙が届くたびに死亡通知かと冷や冷やしていたのよ。私がどんなに心配していたのかわかってるの!」葬儀の場は騒然とします。そりゃそうでしょう。死んでいたはずの人が生きていたのですから。しかし、母親は訴えます。「生きているうちに一目でいいから会いたかったの。だって、あなたたちは私の唯一の生き甲斐なのよ!」その言葉を聞き、皆涙を流しながら抱き合って自分たちの不義理を悔い改めるのです。子を思う母の愛は神様の愛でもあります。天地万物を創造された神様は我々に継続して次のように語りかけておられます。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)」

「聖書と映画 ~続・三丁目の夕日~ 」

 今回は続編である「続・三丁目の夕日」を紹介します。主人公は東大という最高学府を卒業していますが、芥川賞に落選を続けている生活力も金も力もない小説家です。自分の元を黙って去っていったヒロインを忘れられず、自分はあのように美しいヒロインにふさわしいだろうかと自問自答を続け、くよくよしながら消極的に生きています。が、一念発起して芥川賞に臨んだ作品が最終候補に選ばれ一躍マスコミに騒がれるようになります。その小説は、現在踊り子として苦界に身を沈めているヒロインとのささやかな思い出と恋慕の情を切々と綴ったものでありました。ヒロインはヒロインで、小説家として将来のある主人公に自分のように人様から蔑まれるような者がまとわりつくのは迷惑だろう、自分なんかふさわしくないと言い聞かせて生きています。自分が傍にいればきっと迷惑になると思いつめていたヒロインでしたが、その小説を読み、主人公の自分への深い愛情を知ります。こんなにも愛されていたのかと知り、涙ながらに主人公の元に駆けつけていきます。そのヒロインに向かって主人公は叫びます。「俺なんかでいいのか?もしかしたら一生甲斐性なしだ。おまえを幸せにできないかもしれない。それでもいいのか?・・・」深い愛に触れるとき、人はあるがままの自分に気付きます。神様の愛を体感する時にも実は同じようなことがおこります。神様の深い愛に触れられる時、人は自分のあるがままの情けない罪深い実相に気づかされます。神様の愛を受けるにふさわしくない自分でも愛され続けていることが分かった時、その恵みがあまりにも素晴しく、ただ感謝と喜びで涙・鼻水が止まらない、そんな体験をすることがあります。聖書は言います。「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。(Iヨハネ4:8)」当教会は、神様の愛と癒しを受けて、お互いを愛し合い、癒し合う関係を目指しています。(セル活動を行っています)そのような観点からみても、この映画は愛されることの喜びを教えてくれる、私のお勧めの映画です。

 「聖書と映画 ~三丁目の夕日~ 

 「三丁目の夕日」を紹介したいと思います。時は昭和30年代、吉岡秀隆扮する主人公は駄菓子屋の親父です。東大という最高学府を卒業しているものの、芥川賞に落選を続け生活力も金も力もない小説家です。そこに、美しいヒロインが出現し、主人公の胸はときめきます。クリスマスの夜に婚約指輪を手渡そうと思い、意を決してその箱をヒロインに差し出します。箱のふたを開けてみると、ナント、何も入っていません。主人公は叫びます。「スマン。この通りだ。今はお金がない。原稿料が入ったら必ず中身を手に入れて渡すから・・・」ヒロインは箱を見つめ、手を差しのべてこう言います。「つけてよ。いつか買ってくれるというその指輪、私の指につけてよ。」主人公は目に見えない指輪を箱からそっと取り出して、ヒロインの指に優しくつけてあげます。ヒロインは目に見えない指輪がついた手指を裸電球にかざして、涙を流しながら、「綺麗・・・」とつぶやくのであります。何回見てもこのシーンは私の目頭を熱くさせます。そして、信仰もそうだな・・・と思うのです。

聖書は言います。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。(へブル11:1)」長期間コツコツと祈り続けてはいても、神様はこの祈りをかえりみて下さるのだろうか、といった不信の思いがまとわりつくことがあります。しかし、それを乗り越えていく励ましを御言葉は下さいます。「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。(マルコ11:24)」まだ実現しておらず見えてないこと、それが既に実現しているかのように、祈り、信じ、そのように振る舞い続ける時に約束のものが手に入ってくるという聖書的真実があります。不断の祈りや信仰の代価・労苦・涙を乗り越えて神様から賜ったものだからこそ、いただいた恵みの重みと尊さとを知ることになるのです。

「聖書と映画 ~ The Tree of Life ~ 

 第64回カンヌ国際映画祭パルムドール(最高賞)に輝いたこの映画は、ただただ素晴らしいの一語に尽きます。キリスト信仰というものを非常に良く分かっている人が正しい聖書観のもとに紡ぎ出した美しい映画といえるでしょう。

 この映画の重要なモチーフは冒頭に出てきます。主人公の母親の声で「人には二つの生き方がある。」と語られます。一つはnatureのままに生きること。しかし、日本語の字幕の訳がお粗末で真意を伝えきれていません。“本能”と訳してあるのでここでは的外れなものとなっています。Natureの本来の意味は、ジーニアス英和辞典では、「[神学用語として]神の恩寵を受ける以前の人間の自然状態」とあります。これは将に自分の我(が)のままに生きることを意味します。絶対なる神を無視し間違った動機で自分の方法で願望を達成しようとする意志もこれに含まれるでしょう。そして、もう一つは、神の恵みの中で神の御心に従順に生きること。そのような人は利己心を持たず不幸は訪れないが、この生き方を選ぶ者は人から嘲られ侮辱されるとも付け加えています。

「 確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。IIテモテ3:12」

 この二つの生き方を主人公の父親と母親の生き方に対比させながら主人公は回想を進めていくのです。物語は時間の流れに応じて進んでいるわけではありません。断片的に順序不同で進められていくので、見る人は自分の頭の中で整理しつつ全体の流れを理解していかねばなりません。

 初老にさしかかった主人公は多分実業家としてそれなりの成功を収めた人物なのでしょう。モダンな広い邸宅に住んでいるものの、家の中では妻と歩く向きが違い淋しげでうまくいっていないようです。最初に小さな炎が現れますが、これは聖霊の炎で主人公が死というものを意識し信仰を持とうとしようとしている兆しを示しているように思われます。初老にさしかかり漠然と死を意識し、彼は母と戦死した弟の回想で絶対なる神を再度意識していきます。母の生きる姿勢や温和で決して怒ることのなかった麗しい弟との思い出を通し、自己実現の為に忙しく働いていてきたこれまでの自分の人生が神から離れていたことに気づかされるのです。父親は威圧的な人物でした。信仰をもってはいたものの、強い我(が)も併せ持っていました。27個の特許を持っていることを誇り、ビジネスマンとしての成功を目指し、お金や社会的影響力を獲得することにあくせくしていました。神に聞こうとせず自分の方法で願望を達成しようとしていました。「男が人生で成功する為には‘力’が必要だ、善良な人間は利用されるだけだ」と言い切り、自分のことは棚に上げ厳しい躾けを押し付ける為に、子供達は家庭内で閉塞感を感じ、特に長男である主人公は父親を偽善者と心の中で批難していました。いつも心の中に反抗心と激しい怒りが蔓延し、そのストレスからか、他人の家にこっそり忍び込みやってはいけないことまで行ってしまいます。また、温和な弟を痛めつけてしまいます。兄を責めない弟の優しさに、自分を責め自己矛盾と罪悪感に浸る主人公。そんな折、父親はビジネスに失敗し勤めていた工場が閉鎖され家族は住み慣れた家を引っ越すことになります。淋しげな父親の後ろ姿に近づいていく主人公に父親は「自分は今まで大切なものに気づかないで生きてきた。お前には将来実業家になって欲しいと思っていたから厳しくあたってきた。申し訳なかった。今の自分には何もない。ただ、お前たちだけが自分の誇りだ。・・・」と本音を語るのです。主人公も、「自分は母親似ではなく、お父さんに似ているんだと思う。・・・」と語ります。そのような1950年代の回想シーンが次々と繰り広げられていくのです。挫折を経験することによって、父親は初めて重要なもの、大切なものに気づきます。それは、ビジネスに成功して富や名誉、影響力を獲得することではなく、身の回りにある目に見えないが麗しいもの、自然の美しさ、家族の愛、魂の平安、絶対なる存在・・・そのような貴いものに気づかされるのです。人は壁にあたって自己の我(が)が打ち砕かれた時にこそ真実なもの、永遠のものに気づくことがあります。我(が)が強ければ強いほどそうでしょう。しかし、母親は主の恵みを知る従順な信仰者でした。次男の戦死の報を受け激しい悲しみに襲われるものの、喪失の悲しみに正面から向き合い、神様との真実なお交わりの中で、悲しみを克服し深い慰めを得るのです。母親の生き方、戦死した弟の影響を受け、主人公は絶対なる神を意識し信仰を持つことを決意します。そのくだりは、主人公が躊躇しつつ狭い門に入るシーンとして描かれているように思われます。

「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。マタイ7:13~14」

 小さな惑星が太陽のような巨大な天体に近づいていく映像も出てきます。絶対なる神に近づく人間の姿を象徴的に表した映像でしょうか。これも深い聖書の理解だと感嘆してしまいます。なぜなら、人間は自らの過ちによって罪を受け継いだ存在であるとはいえ、絶対なる神様の似姿として創造されているからです。だから、大きさが遥かに違うとはいえ、相似形の二つの天体が近づくシーンには深い意味があります。

 さて、映画の中では、長男が真なる神に早く立ち返るように、母親は祈り続けていたようです。最後に、「私の息子の魂を御手に委ねます」というセリフが出てきます。母親の愛の執り成しの祈りは地にあっても天にあっても偉大なのでしょう。

 深い聖書的意味を持つ一連の映像美を醸し出した監督の才能には舌を巻いてしまいます。監督のテレンス・マリックは元々哲学を学んだ人物です。1994年カンヌ映画祭で監督賞を、第51回アカデミー賞撮影賞を獲得するも、興業的に成功しなかったせいか、1994年までフランスで教鞭をとっていたそうです。かつて紹介した「ナルニア国物語」の映画にも素晴らしい聖書的真実が満ち溢れていました。とはいえ、子供じみたファンタジーが嫌いな知的な御仁も世の中には多いでしょう。そのような大人の方々にキリスト教の真実を知ってもらうためには、難解なこの映画はお勧めです。

「聖書と映画 ~明日の記憶~ 

 「明日の記憶」という映画があります。主人公(渡部謙)は、広告代理店で働くバリバリの営業マンです。多くの部下を統括し、取り引きでも大きな成果をおさめていくのですが、同僚の名前を失念するような物忘れが頻発し、仕事上でも大きな失態を演じて深く落ち込みます。妻(樋口可南子)は、夫が鬱病ではないかと心配し専門医の受診を勧めます。そして、若年性アルツハイマー病の告知を受けてしまいます。ショックを受けた主人公は、混乱し落胆して座り込みます。そして、傍にいる妻にこう言います。「おまえは、俺が俺でなくなってしまっても平気なのか?」と。妻は答えます、「平気じゃない。私だって恐いわ。・・・」。夫の頬を伝って流れ落ちる涙を妻はぬぐってあげながら、「私がいます。私がずっーと、そばにいます。だって、家族だもの・・・」と優しく語り、夫を慰めるのです。その後、病気の進行を抑えるべく夫婦二人三脚の戦いが始まっていくのです。このシーンを見るたび、夫婦愛の素晴しさに、私は目頭が熱くなります。人が困難な状況に呻吟し苦しんでいる時、その切なる思いに深く共感してくれて励ましながらずっと寄り添ってくれる存在ほどありがたいものはありません。この深く共感する思いこそ、我々の教会が求める「癒し癒される」喜びの根幹をなすものだと信じます。そして、はらわたがちぎれる程の深い共感の思いこそ、イエス様の愛であります。そのイエス・キリストの救いの恵みによって、我々にキリストの花嫁という素晴しい特権が与えられます。花婿であるイエス様は語られます。「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。(ヨハネ14:18)」さらにこうおっしゃられます。「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(マタイ28:20)」深い悲しみや憂いが、花婿なるイエス様によって喜びに変えられていく、そのような世界が開かれていくのです。

 「聖書と映画 ~汚れなき悪戯~ 

 「汚れなき悪戯」という素晴らしいスペイン映画があります。主人公は捨て子でしたが、修道院で育てられました。「絶対2階にあがってはいけないよ、もし2階に入ったら大変な事がおこるから・・」と修道士達におどされるものの、好奇心旺盛で腕白な主人公は戒めを守れず、2階にあがってしまいます。そこで、十字架に磔にされたイエスキリスト像を目撃し、驚いて部屋から飛び出します。その後、イエスキリストの像が気になって気になって仕方がありません。可哀想なので、何とかしてあげたいと思うようになるのです。あの磔にされている人はお腹が空いているからあんなにやせ細っているんだと、幼い主人公は思い込み、台所から食事を盗んでは、イエスキリスト像に差し入れを始めます。すると、イエスキリストの像がゆっくりと動き出し、幼い主人公が差し出すパンとぶどう酒を食べ、話し始めるのです。主人公はイエス様と人格的なお交わりをしました。

 私どもは、聖書の御言葉を単に頭で理解することに時間を費やすことがあります。しかし、神様は人格的なお交わりを私達に望んでおられるように思います。イエス様の足元でお話を食い入るように聞き入っていたマリアを、姉であるマルタは見咎めました。そしてイエス様にマリヤの態度を叱ってもらうようにお願いしました。しかし、イエス様はお答えになります。「『マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。』(ルカ10:42)」私たちは日々忙しく過ごしているために、本当に大切なことを見失いがちです。本当に大切なものの一つに、神様との親密なお交わりがあります。静かにじっと座って神様の御声に耳を傾けていく時間を持つ時、神様は我々の全てをご存知の方ですから、深い癒しの御言葉を下さいます。神様の深い慰めの御言葉に触れるとき、涙が溢れ、深い癒しがもたらされていく、そんな世界があります。素晴らしい恵みを神様は下さるのです。

「聖書と映画 ~ナルニア国物語 ライオンと魔女~ 

 60年ほど前にCSルイスによって書かれた世界的ファンタジー「ナルニア国物語 ライオンと魔女」が上映されました。作者CSルイスは、ケンブリッジ大学の英文学教授であり、聖書学者としても当時有名な人物でした。

 時は第二次世界大戦の最中、ロンドンの大空襲を避けて、4人の兄弟姉妹が田舎の大きなお屋敷に疎開してきます。その家の衣装タンスはナルニア国につながる入り口でした。この国は100年の冬に閉ざされた不思議と魔法の支配する国でした。偶然衣装ダンスを通って迷い込んだ4人の冒険がはじまっていくのです。こう書くと、荒唐無稽なお話のようですが、中々奥が深いのです。次男坊は、ナルニア国を恐怖で支配している白い魔女と出会いますが、魔法のかかったお菓子のとりこになり、自分の兄弟姉妹を命の危険に遭わせます。しかし、ナルニア国の創造主ライオン・アスランと出会うことによって、彼は心から悔い改めるのです。しかも、裏切り者である自分を救う為に死んでくれたアスランの自己犠牲の愛に直面し、彼は命がけで正義の為に闘うことを決意します。聖書は言います。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(ヨハネ15:13)」

 CSルイスはこの物語の中で、我々の罪の身代わりに死んでくださったイエス・キリストの十字架の愛と犠牲を分かりやすく効果的に伝えることに成功しています。何故ライオン・アスランがイエス・キリストを象徴しているのでしょうか?イエス様はユダヤ12部族の中のユダ族の出身でした。ですから、創世記の次の御言葉と無縁ではないように思われます。「ユダは獅子の子。わが子よ。あなたは獲物によって成長する。(創世記49:9)」

 さて、この物語は不思議なことに、読み進めている読者の心のあり方まで変えてしまいます。それは、アスランの語る言葉が聖書の原則そのものだからです。だからこそ、人の心を変え、その人の人生を方向転換させる大きな力があるのです。ファンタジーと言うと子供向きか・・・と思われるかもしれませんが、大人でも十分楽しめる物語であるということを最後に申し添えさせていただきます。

「聖書と映画 ~ターミナル~ 

最近、「ターミナル」という映画を見ました。米国の空港に到着した主人公は、入国する寸前にパスポートが没収されてしまいます。実は主人公の祖国にクーデターが起こり、その瞬間にパスポートもビザも無効になってしまったからです。自国のお金も全く無効になり、一夜にして無一文になり、しかも、法の狭間に陥ってしまった彼は、入国も出国もできず、言葉が不自由なまま、空港で暮らすことを余儀なくされます。しかし、主人公は忍耐と知恵をもって英語を習得し、空腹を満たす為にお金を稼ぐ方法も覚え、空港に行き交う様々な人々の問題を解決してあげていくのです。人々の心に喜びとインパクトを与え、彼の人望は徐々に広がっていきます。そして、10数ヵ月後、彼が空港を出て行く時は大勢の応援者が彼を送り出すことになっていきます。

真実の行動は、言葉を越えます。我々の教会のセルグループ活動が目指す“癒し癒される人間関係”も、ある意味、言葉を超えた喜びの関係です。映画「ターミナル」の主人公は、じっと待つことを知っていました。我々現代人は、じっと待つことに余り慣れていません。効率化とスピードが求められ、いつも何かに追い立てられ、すぐに結果を求めてしまいます。その習慣から、祈ってすぐに、神様からの答えを期待してしまいます。しかし、祈りは必ず主に覚えられていると信じて、じっと待つ時に、主に対する信頼も深まっていく、そんな世界があります。じっと跪いて主を待ち望むこと。そして、主の御介入を待ち望むことは、我々の生活にとって、非常に必要なことではないでしょうか。たとえ限界に突き当たっても、我力でもがこうとせず、祈りつつ、祈りを聞かれる主の御介入を待ち望むこと。そのような心のあり方も信仰者には要求されているように思えます。聖書は言います。

「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。(イザヤ書40:31)」