聖書と映画~The Tree of Life~

「聖書と映画 ~ The Tree of Life ~ 

 第64回カンヌ国際映画祭パルムドール(最高賞)に輝いたこの映画は、ただただ素晴らしいの一語に尽きます。キリスト信仰というものを非常に良く分かっている人が正しい聖書観のもとに紡ぎ出した美しい映画といえるでしょう。

 この映画の重要なモチーフは冒頭に出てきます。主人公の母親の声で「人には二つの生き方がある。」と語られます。一つはnatureのままに生きること。しかし、日本語の字幕の訳がお粗末で真意を伝えきれていません。“本能”と訳してあるのでここでは的外れなものとなっています。Natureの本来の意味は、ジーニアス英和辞典では、「[神学用語として]神の恩寵を受ける以前の人間の自然状態」とあります。これは将に自分の我(が)のままに生きることを意味します。絶対なる神を無視し間違った動機で自分の方法で願望を達成しようとする意志もこれに含まれるでしょう。そして、もう一つは、神の恵みの中で神の御心に従順に生きること。そのような人は利己心を持たず不幸は訪れないが、この生き方を選ぶ者は人から嘲られ侮辱されるとも付け加えています。

「 確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。IIテモテ3:12」

 この二つの生き方を主人公の父親と母親の生き方に対比させながら主人公は回想を進めていくのです。物語は時間の流れに応じて進んでいるわけではありません。断片的に順序不同で進められていくので、見る人は自分の頭の中で整理しつつ全体の流れを理解していかねばなりません。

 初老にさしかかった主人公は多分実業家としてそれなりの成功を収めた人物なのでしょう。モダンな広い邸宅に住んでいるものの、家の中では妻と歩く向きが違い淋しげでうまくいっていないようです。最初に小さな炎が現れますが、これは聖霊の炎で主人公が死というものを意識し信仰を持とうとしようとしている兆しを示しているように思われます。初老にさしかかり漠然と死を意識し、彼は母と戦死した弟の回想で絶対なる神を再度意識していきます。母の生きる姿勢や温和で決して怒ることのなかった麗しい弟との思い出を通し、自己実現の為に忙しく働いていてきたこれまでの自分の人生が神から離れていたことに気づかされるのです。父親は威圧的な人物でした。信仰をもってはいたものの、強い我(が)も併せ持っていました。27個の特許を持っていることを誇り、ビジネスマンとしての成功を目指し、お金や社会的影響力を獲得することにあくせくしていました。神に聞こうとせず自分の方法で願望を達成しようとしていました。「男が人生で成功する為には‘力’が必要だ、善良な人間は利用されるだけだ」と言い切り、自分のことは棚に上げ厳しい躾けを押し付ける為に、子供達は家庭内で閉塞感を感じ、特に長男である主人公は父親を偽善者と心の中で批難していました。いつも心の中に反抗心と激しい怒りが蔓延し、そのストレスからか、他人の家にこっそり忍び込みやってはいけないことまで行ってしまいます。また、温和な弟を痛めつけてしまいます。兄を責めない弟の優しさに、自分を責め自己矛盾と罪悪感に浸る主人公。そんな折、父親はビジネスに失敗し勤めていた工場が閉鎖され家族は住み慣れた家を引っ越すことになります。淋しげな父親の後ろ姿に近づいていく主人公に父親は「自分は今まで大切なものに気づかないで生きてきた。お前には将来実業家になって欲しいと思っていたから厳しくあたってきた。申し訳なかった。今の自分には何もない。ただ、お前たちだけが自分の誇りだ。・・・」と本音を語るのです。主人公も、「自分は母親似ではなく、お父さんに似ているんだと思う。・・・」と語ります。そのような1950年代の回想シーンが次々と繰り広げられていくのです。挫折を経験することによって、父親は初めて重要なもの、大切なものに気づきます。それは、ビジネスに成功して富や名誉、影響力を獲得することではなく、身の回りにある目に見えないが麗しいもの、自然の美しさ、家族の愛、魂の平安、絶対なる存在・・・そのような貴いものに気づかされるのです。人は壁にあたって自己の我(が)が打ち砕かれた時にこそ真実なもの、永遠のものに気づくことがあります。我(が)が強ければ強いほどそうでしょう。しかし、母親は主の恵みを知る従順な信仰者でした。次男の戦死の報を受け激しい悲しみに襲われるものの、喪失の悲しみに正面から向き合い、神様との真実なお交わりの中で、悲しみを克服し深い慰めを得るのです。母親の生き方、戦死した弟の影響を受け、主人公は絶対なる神を意識し信仰を持つことを決意します。そのくだりは、主人公が躊躇しつつ狭い門に入るシーンとして描かれているように思われます。

「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。マタイ7:13~14」

 小さな惑星が太陽のような巨大な天体に近づいていく映像も出てきます。絶対なる神に近づく人間の姿を象徴的に表した映像でしょうか。これも深い聖書の理解だと感嘆してしまいます。なぜなら、人間は自らの過ちによって罪を受け継いだ存在であるとはいえ、絶対なる神様の似姿として創造されているからです。だから、大きさが遥かに違うとはいえ、相似形の二つの天体が近づくシーンには深い意味があります。

 さて、映画の中では、長男が真なる神に早く立ち返るように、母親は祈り続けていたようです。最後に、「私の息子の魂を御手に委ねます」というセリフが出てきます。母親の愛の執り成しの祈りは地にあっても天にあっても偉大なのでしょう。

 深い聖書的意味を持つ一連の映像美を醸し出した監督の才能には舌を巻いてしまいます。監督のテレンス・マリックは元々哲学を学んだ人物です。1994年カンヌ映画祭で監督賞を、第51回アカデミー賞撮影賞を獲得するも、興業的に成功しなかったせいか、1994年までフランスで教鞭をとっていたそうです。かつて紹介した「ナルニア国物語」の映画にも素晴らしい聖書的真実が満ち溢れていました。とはいえ、子供じみたファンタジーが嫌いな知的な御仁も世の中には多いでしょう。そのような大人の方々にキリスト教の真実を知ってもらうためには、難解なこの映画はお勧めです。