私の通っていた教会は、とても保守的なところで、クリスチャンの女性は、どちらかというと質素でおとなしい方が多かったようでした。男性が頭と教える聖書は、女性に、しとやかに、男性に仕えるように、と説いているところがあり、教会も、目に見えて、そういう女性を望んでいるような気がしました。
そういう教会の雰囲気もあって、若い日の私は、神は、私をある型にはめて矯正しようと教育する、道徳心の熱い父親のようなものと感じていました。 そのために、私は、神様を愛していましたが、きゅうくつにも感じていました。
私は、きゅうくつに感じると、
「私は、こうしたい。こうなりたい。私の好みはこうです!」
いくらでも、主に文句を言い、自分の考えを主張しました。
自分の進路や生き方を、主に尋ねて導きに任せる、というより、自我の強い娘が、自分のお父さんに、あれこれ、希望や不満をぶちまけるような感じです。
でも、今になって考えると、実は、一番、自分を型にはめようとしていたのは、当の自分でした。
クリスチャンライフとは、本当の自分を否定して、主のみこころを求めていく物だ、と、私自身が一番そう思っていたのだと思います。
色んな人生の岐路にあるときに、自分の好み、自分のやりたいこと、そういうことをどんどん主に主張するくせに、どこかで、主に対して、自分の気持ちを強く主張することは間違っていると、当の私が考えていたのかもしれません。
でも、主が私の人生にしてくださったことをあらためて省みたときに、私は、主が私に求めていたのは、自分を否定することでも、ただのイエスマンになることでもない、と理解し始めました。
主が、型にはまったクリスチャンライフへ私を導くことを望んでいるのではなく、主は、主と私の、本音でのぶつかり合いをとても望まれていた、と知りました。おそれおおくも、想像もつかないほどの大きな方が、ちっぽけな私と人格的な交わりを、心の底から、喜び楽しんで下さっていた、と、感じることができました。
主は、どんな時でも、私を型にはめることなく、私が言ってくる主張、私の好み、私の疑問。それらすべてを、いつも好ましく受け止めていてくださっておられたのです。
「主のみこころのようになりますように!」
と祈りながらも、
「私は、これがいい!」
とどこかで思っていたりすると、主は、その思いをいつも拾い上げていました。そして、きれいな言葉でおおった祈り心より、私の本音を求めておられました。
苦難や難問にぶつかるたびに、私は主に、大声で負の感情をぶちまけてしまいましたが、主は、それを、良しとしてくださっていました。
主が、聞きたいのは、私の本音でした。うその従順ではなく、私の心の底を知りたがっておられたのです。
そして、問題が解決したとき、主が備えた物のすばらしさに驚嘆しました。私の好みや、私のつぶやきさえもお聞きになって、解決の道をつけてくださっていました。
最近私は、主との交わりが、はるかかなたの主権者と一民衆といった交わりではなく、ほんとに、テーブルに座って顔つき合わせる父との交わりであることを感じます。不平不満の大文句も、どのささやきも、どのたわいないおしゃべりも、主が、ほほえみを持って耳を傾けてくださっている。しかも、それを、自分に語ることを、とても喜んで下さっている。そう感じるのです。