我らの父、主イエス・キリストよ。
Gattesgnade
今回、八月の証を勧められたのは主の導きであろうと思い、挑んでみたいと思う。
どうかこの駄文に目を通される方、あなたの胸をかして頂きたい。どうかあなたが神の慈悲を現して最後迄読んで頂けますように。
又、感情に押し流されると余計な事を書いてしまいそうなので出来るだけその様な表現は控えようと思う。
教会にくる前の私
①愛されている実感がなかった
②寂しさでいっぱいだった
③絶望していた
④子育ての事で悩み過ぎていた(私の息子達はとても手のかかる子だ!)
⑤夫婦関係が悪かった
⑥友達が一人しかいなかった
⑦三度の食事もとれなかった(水を飲んでももどしてしまう!)
⑧ほとんど寝たきりだった
⑨毎日泣いていた
教会に来てからの私
①主に愛されている実感が芽生えた
②寂しい時が減った。全く寂しさを感じない、とは言えない。時々寂しさは訪れる。でも気にする程ではない。そんな時は外に出るか、聖書を読むか、賛美を聴くと大抵治まるものだ!
③11年もの絶望? 神様が終わらせれくれた。
④次から次へ押し寄せてきていた息子達への悩みは整理されて今は一つに。
⑤夫婦関係は、平和。
⑥友達が一人から三人に増えた。(何より神を中心にした家族ができた!)
⑦三食きちんと食べられるようになった。
⑧今年は息子をおんぶして海で泳ぎました。
⑨教会で神様に、聖霊さまに触れられて涙。感動の大つぶ涙ポロポロ。
今、しげしげと自分が書いているものを眺めて一番驚いているのは他でも無い私である。
ううむ。一年色々あったがこんなに変わったのかぁ。と感嘆するばかり。
これはイエス・キリストから愛されている事を学び、愛してみない事には体験できないものなのかもしれない。
ところで日本人でも「努力」と言う言葉がなんとなく好きになれない人は少なくないだろうと思う。私もその内の一人である。努力というのはつきつめて考えれば、期待が込められているのではないかと思う。その期待が裏切られた時、それまでの「努力」と言うものを肯定できるかできないかで絶望というものを味あわされる。
しかし聖書こそが、力を入れるべき所はどこか、気をつけなければいけない所はどこかを書いてくれている、言わば最強の指南書なのだ。日本は神仏混合の国だから、文化圏が違うから、と言って甘く見てはいけない。読んでみると、人間の本質とは国も文化も関係ない事に驚くばかりだ。
しかし最強の指南書は難しい所もある。良い導き手やアドバイザー、道を逸れている時に指摘してくれる神の家族(教会に集う方々)が必要不可欠である。
自分の悟りで以って「努力」をし、後に待ちうける絶望か肯定をスロットマシーンで運だめしするか、神の愛を一身に受け、最強の指南書を手にして神の道を歩むか。私は後者をお勧めする。
今日もハレルヤ!主よ!