証(あかし)2016

ハレルヤ!主の御名を賛美します!

20161013日、椎間板ヘルニアの手術をしました。自分は19歳の時、右手の指を2本切断してしまい、36歳の時、左目が失明してしまいました。でも今回のヘルニア手術後は、今までで感じた事のない、受けた事のない程の激痛を今回、味わいました。痛み止めの薬も1時間程度しか効き目がなく、薬も6時間ごとでないと、受けられず45時間、一日中痛みとの闘いでした。それが4日間続き5日目から少しずつ楽になってきました。

今回の激痛の中で、「神様!この痛みを癒して下さい!取り去って下さい!」と祈りながら、信じて耐えていましたが、「イエス様が受けた痛みは、こんなもんじゃなかったんだろうな〜。この何十倍もの痛みだったんだろうな」と感じました。今まで「パッション」という映画は、何回か見ましたが、映像と自分の中での勝手な解釈でイエス様の受けた痛みを判断していました。でも今回の痛みを通して、イエス様の受けた痛みは、とんでもない痛みと苦しみに遭われたんだと、それも自分の為に、このとんでもない痛みと苦しみを受けて下さったんだと実感しました。それも自分の今までの罪と赦しの為なんだと再確認、再認識させられました。これからは、少しでも罪を犯さない様にし、神様に喜ばれる人生を送って、恩返しをしていかなければ申し訳ない思いにかられました。気付かされた事に感謝しています。主に栄光を!

コリント人への手紙第二 5910節・21
そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

※映画「パッション」…イエス・キリストが十字架にかけられるまでの12時間を描いた映画。メル・ギブソン監督。2004年にアメリカで製作された。

「決して見捨てない天のお父さん」

 私は小学校の途中から学校へは行かず、自宅で勉強するホームスクーラーになりました。日本ではこの教育方針はあまり知られておらず、周りからは学校へ行かないということで批判的な目で見られがちでした。人の言葉や態度に傷つき、どんどん孤立していきました。

 通信制の高校を卒業し、専門学校在学中に、就職活動で私は社会の厳しさに圧倒され心が折れてしまいました。それから社会への恐怖感と先の見えない不安感で二十代半ばまで過ごしました。

 もともと絵を描くことが好きで、何か仕事に出来ないかと思っていた時に、印刷やデザイン関係で仕事を取ったり就いたりするにはイラストレーター(adobeのデザインソフト)を習得することが大きいことを知りました。しかしそれを習得するために講座を受講するにもお金がいるし、人と接するのも辛い、となかなか動けずにいました。

「誰かイラストレーターを教えてくれて、仕事の師匠になってくれる人はいないかなぁ」そう思って、母と一緒に祈りました。

 それから半年経ち、祈ったこともすっかり忘れていた時に「地域の情報誌のお手伝いをしてみない?」と電話がありました。

 その方は両親の知り合いでプロのデザイナーさんでした。課題だったイラストレーターも教えて下さるそうで、情報誌の紙面デザインは実践的な学びの時だと思いました。きっとこれは神様がして下さったんだ!とすぐにお返事しましたが「自分に出来るだろうか?」という不安と緊張もありました。

 編集長さんにご挨拶と打ち合わせに行く時も凄く緊張しましたが、物腰の柔らかい方で、神様は良き出会いの祝福も与えて下さいました。

 地域情報誌のお手伝いの中では失敗もたくさんして、迷惑もたくさんかけました。出来ない自分を腹立たしく悔しく思ったり、関係者の方々に対する申し訳なさでたくさん泣きました。

 そんな時も神様は「この一歩をよく頑張った。わたしはそれを喜ぶ。あなたの心はわたしが一番よく知っている。わたしが共にいて一緒にする」と優しく慰めて下さり、何度も御声と御言葉に励まされながら進んで行きました。

 いつも必死でしたが、その中で今まで経験し損ねてきた様々な大事なことを経験し、学びました。きっと社会人一年目の人が経験するようなことなんだな、と思いました。

 数回お手伝いを重ね、少しずつ慣れてきた頃、新しいデザインの方が入ることになり、その場所でのお役目と学びの期間が終りました。

 その後は、そこで学んだことを活かして自宅でチラシやパンフレットを作る仕事を受けることが出来るようになりました。まだまだ自信がない私に、神様は少しずつ少しずつ、私が倒れないように様子を見ながら仕事を送ってくれています。

 神様は本当に天のお父さんです。私の成長を見守り、助け、決して見捨てることなく、大きな愛で包みながら、一つ一つ導いて下さるんだなぁと感じました。

 私の抱えているあらゆること、コンプレックスも、事情も、悩みも、傷も、全てご存知で、でもそのままにはされず、私が幸せになるように計画し、その道を拓いて下さいました。ハレルヤ!

「わたし(神)はあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである」ヨシュア記1章9節

私が雅歌8章のデボーションから受け取った御言葉を分かち合いたいと思います。

『雅歌8章6〜7節』より

私を封印のようにあなたの心臓の上に、封印のようにあなたの腕につけてください。
愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。
その炎は火の炎、すさまじい炎です。 

ここに出てくる「封印」とはいつも身につける大切な印章のことであり、「死のように」とは絶対的なものを表しています。

以下の受け取った祈り。

神様、封印のように私の最も大事なもの即ち第一にするものを神様の死のように強い愛の上に、神様の御手の働きにいつも置くことができますように。受け取った御言葉を感謝します。アーメン。

ディボーション…聖書を読み、黙想したり神様に祈ったりする中で、神様からの語りかけを受け取ること。

わたしは、お庭の仕事をしているのですが、いつも自信がなく、お庭作りを頼まれる時、毎回必死で神様に祈ります。その祈りの中で、神様はいつも励ましやみことばをくださり、お庭作りを助けてくださいます。

カフェの寄せ植え作りを頼まれた時、夏の寄せ植えで植物が枯れやすいし、本当に自信がなくて神様に祈ったら、「わたし(神様)の恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。(コリント人への手紙第二129)のみことばをくださって、夏だったので枯れた植物もあったのですが、枯れた植物を抜いたら、むしろ完璧な組み合わせなってて、神様ってすごい!と思いました。ほかのお庭を作る時も、神様が、自分にできないことをしようと思わないで、自分にできることから精一杯やりなさいと語ってくださって、すごく心がラクになって、お庭を作る中で自分でもびっくりするようなアイディアが与えられたり、神様が祝福してくださってるのを感じて、お庭もすごく喜んでもらえました。

二年前くらいから、お父さんが建てた教会のお庭を頼まれていて、神様にみこころを求めてました。しかし、遠くて大変だし、正直難しいなと思っていました。でも、箴言の、「あなたの手に善を行う力があるとき、求める者にそれを拒むな。(箴言327)のみことばをいただきました。ちょうど頼まれていたべつのお庭の仕事がキャンセルになり、ショックだったのですが、そのおかげで時間も与えられました。母も、主の宮を後回しにするのはよくないと示されたので、思いきって教会のお庭を作りに行きました。二泊三日でお庭を途中まで作って一回家に帰ってきて祈った時に、すごく喜びと平安がきて、神様を愛することを抜きにして、神様のための奉仕はできないと主(神様)が語られて、主(神様)と交わり、主(神様)の愛に満たされないといけないと感じました。でも、神様がすごく喜んでくださってるのを感じて、教会の人に喜んでもらえなかったらどうしようとか、恐れがあったのですが、神様が喜んでくださってるんならいいじゃないと思って平安がきて、次にお庭を作りに行った時は、神様愛します!っていう心でお庭を作り終えることができました。教会の方もすごく喜んでくださり、用いられて感謝でした!

心を尽くして主(神様)により頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主(神様)を認めよ。そうすれば、主(神様)はあなたの道をまっすぐにされる。箴言356

コリント人への手紙第二 111
あなたがたも祈りによって、私たちを助けて協力してくださるでしょう。それは、多くの人々の祈りにより私たちに与えられた恵みについて、多くの人々が感謝をささげるようになるためです。

ちょうど1年前に、義父が交通事故にあい、相手はワゴン車で、父は軽トラで、正面衝突にあい、軽トラのドアが開かない状態で、レスキュー隊にドアカッターで取りはぎ、病院に搬送されました。相手がワゴン車だという事だったので、もうダメかな?良くて寝たきり生活かなと思ってしまいました。しかし驚くことに、左膝の粉砕骨折とあばら骨に少しヒビがある程度ですみました。まさに奇跡でした!父は仏教徒ですが、娘や教会のメンバーや牧師先生方にも祈っていただいていたので、周りの皆様の祈りによって生かされていると実感しました。
ちなみに毎週土曜日に父の家でSAXで賛美をして家も父も少しでも癒され守られる様に、これからも祈り賛美していきます。そして父もクリスチャンになる日が1日でも近づく様に、主の導きがあります様に。主に感謝と賛美を捧げます!ハレルヤ

このわたし()はあなたを忘れない。

見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。

                     イザヤ書491516

私はここ、オイコスチャーチで洗礼を受けてもうすぐ丸一年が経とうとしております。

それまで、重度のうつ病に悩まされておりました。食べ物も、飲み物もうけつけず、痩せてゆくばかり。「こんにちは」の一言さえ、私の胸には突き刺さって取れる見込みのないそれはとげのようで、散り散りになった先端が、胸から全身へと駆け巡り、最後は霧のように私の中を覆ってしまうのでした。心が腐るとはこんな風なのかもしれないと、その頃、ふと思った記憶があります。

ところが最近は食べ物が美味しくて々々しくて。とうとう料理などし始めたり。それまで出来なかったことが出来るものだから嬉しくて。

子供の学校行事にも参加できるようになりました。ついには仕事をはじめました。

ああ、なんという幸せ。

私は神様を信じないという人がいたらやっぱりにこりと微笑むのです。微笑みながら毎夜その方が救われますようにと祈るのです。幸せの概念とかなんとか哲学はすきではないから分かりませんが、神様の深さと高さと清さと憎らしいほどの愛情とが、欠片として降り注ぐ瞬間みたいなものを、その方達は経験なさってないのだと、ほんのしばしの間、自分もかつてはそうだったと記憶がよみがえってくる。

神様の示す道に従順に「はい」とだけ言って頷いて従った私は幸いでした。

でも怒涛の涙を流しながらでの私の神様への従順なんて、神様を信じない人からしたら悪寒が走るというものかもしれない。

過日、時に号泣。

私の本心、やっぱり人が怖かった。

からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方(神)を恐れなさい。マタイの福音書1028

こうありたいものだと思いながら、堅く握りながら、目をつむっても瞼の裏にそれがべたりと張り付いていて、神様の思い通りにならない私にさえ、神様は希望の虹をかけて下さるのです。

それらすべてくるりとはぎ取っての証です。

私はやっぱりこんな風にしか証できないけれども、神様はきちんと見ていて下さっていて、私に目をかけて下さって、柔らかな手で包み込んで「私」を少しずつ造り替えてくださるのです。こうして古い「私」はいつの間にか消えてしまって、新しくされて幸せな私だけこんな風にパソコンの前にちょこんと座っております。

どうか神様なんか信じないという方がいたらなぜこのホームページをご覧になったのかを考えてみて下さい。

神様はいつも側で囁いておいでです。

 

おわり

人生にずっと苦労がつきまとう友人というのが、周りを見回すと一人くらいはいます。私の職場のAさんもそんな人です。初めて職場に入ってきたのは、かれこれ、20年近く前でした。パートの求人を見て、面接に見えたとき、その明るくて聡明そうな雰囲気がインパクトがあって、すぐに採用されました。

 でも、そのとき、実は、彼女は、ご主人の連帯保証人になって、その借金を返すために、多くのアルバイトを掛け持ちしていました。

ご主人は、事業に失敗して借金苦にあげき、すべての責任を彼女に押し付けて別のところに逃げていました。

 また、彼女は、施設に預ける障害をもったお子さんまでいました。

彼女の働きぶりは、すばらしく、職場の雰囲気も、彼女のおかげでよくなりました。

しかし、採用されてから今までの長い年月も、多くの試練が彼女にやってきました。

弟さんがガンで、若くして亡くなったり、障害をもったお子さんの持病で、何度も施設から病院に入院しては、高い付き添いさんの費用を負担しなくてはならないこともしばしばでした。別のお子さんの上に大変なことがおこったことも幾たびかありました。

まわりの人たちは、彼女に何か問題があるから、こんなにいろいろあるのでは、なんて、陰口をたたきたくなるほど、試練のオンパレードです。

人柄の良い彼女のために、できるだけの応援をしていた私ですが、彼女をそのすべてから救ってあげるわけにはいきません。

働けども、彼女の生活は、いつも苦しいままでした。

クリスチャンの私は、そんな彼女を見つめながら、生きている聖書の神様なら、彼女をなんとかしてくれるんだけど、と、感じていました。神様が、なぜ、彼女にこんな試練を与え続けるのか、わかりませんでしたが、神様が、彼女を愛しておられることを強く感じていました。

おりにつけて、神様のことを伝えました。しかし、人間的な強さをもっている彼女は、いつも、自分の力でがんばり続けました。

月日は流れ、20年近くがたちました。彼女の状況は、借金の残債だけは減っていきましたが、飛躍的に良くなるわけではありませんでした。

ある時、彼女は、とうとう神様の前に泣き崩れました。もう自分の力でがんばっていくことに疲れ、神様の前に弱い自分のままで、行くことにしたのです。

 3年前に、彼女は、聖書の神を受け入れ、洗礼を受けました。

それから、3年が経ち、ふと気づくと、彼女の表情は柔らかくなっていました。いろんなことがおこっても、彼女は、どこか平然としていました。そして、その見込み通り、最後にはいつも、ちゃんと助けがあり、彼女の状況は少しずつ良くなっていっていきました。いつも自力でがんばる彼女は、いつのまにか、神の前に、自分の限界をあずける人になっていました。試練の中にあっても、どこか、喜ぶ人になっていました。

彼女は、

「もし、ここにきていなかったら、私は、自殺していたと思う。」

とよく言います。神が、初めから、彼女を守り、クリスチャン経営者のこのオフィスに導いたご計画を思います。

あなたがたがわたし(イエス・キリスト)を選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。 ヨハネの福音書1516

と聖書にあるように、試練の時も、いつも、神が、彼女のそばにいたことを垣間見るのです。

そして、彼女は、試練を通された経験を持つので、多くの試練にある人たちをよく励まします。彼女のまわりには、本当に人が集まってきます。

先日、両親と私の三人での初めての旅行に行きました。この旅行はただ単に遊びに行くのではなく、主(神様)が時間を与え、思いを与え、状況や環境も守り、すべてを導いて下さいました。旅行の中で、約20年ぶりに父が礼拝に参加し、母と三人で礼拝を捧げる事ができました。

私たち姉妹と母が信仰を持ち、教会に通う中、父は長い間教会とは離れていました。そんな父が数年前病気を患った際に、教会の方々に祈って頂いた事の御礼をしたいと今回、教会に自ら出向き、主(神様)の御前に座る事になったのです。

礼拝の席に父が頑なな心ではなく、柔らかい心で座る姿を見て、主の御前に自ら進んで出ていく主の弟子を思い出しました。礼拝後も教会の方々と良い交わりを持つことができ、とても楽しんで「来て良かった」と喜んで帰りました。

私自身も久しぶりに両親と過ごす時間を持つことができ、素直に嬉しかったです。いつも離れている分、あまり会話はなくても一緒に食事をし、同じ時間を同じ空間で過ごす中で愛情を感じましたし、親しみが増しました。家族の有り難さも感じました。この思いを持つことができた事も感謝でした。

長い間多くの祈りが積まれ、今回一つのつぼみが、多くの実をこれから結ぶために大きくなり初めたと感じました。
今回の旅行は終わりではなく、始まりだと思います。何か神様が導き、主(神様)のご計画が動き出すきっかけになるのではと期待しています。
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」伝道者の書3章11節
「御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。」マタイの福音書6章10節


私たちの思いではわからないことも想像つかない事もありますが、主(神様)のみこころとご計画が私の家族のうちになされると信じます。
感謝します。主(神様)の御名が誉めたたえられますように。アーメン。

私は、結婚前に創世記の御言葉に感動を受けました。
創世記2章の22です。
神である主は、人から取ったあばら骨をひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。

当時の私は、お世辞にも結婚出来る要素は1つも、見当たりませんでしたが、神様は、私を造り私の結婚相手も造ったはずと思い、毎日ではありませんが、送信メールに結婚したい人の条件のリストを、書いて寝る前に眺めていました。

そうこうしていると、母より、突然、「お見合いせんね…」と言われて、お見合いすることになりました。それは、創世記の御言葉を発見して、8年たったある時でした。
お相手は、母の会社で働いている、無口な男性とのことでした。話しを聞いていると、母は、大変その方を気に入っているようでした。

お見合いの席で私は、自分とイエス様の話をしてしまいました。なぜ教会に行ったのか?なぜ私にイエス様が必要なのか?一方的に語ってしまいました。途中で母も私も涙があふれてきて、お見合いは失敗と思ってしまいました。

「私に愛を下さったイエス様が、あなたに下さらないはずはない。教会に来て、人生やり直しましょう。」私は、彼に熱く語ってしまいました。お見合いはもう完全におしまい…と私は心でひそかに、思いましましたが、彼は、イエス様を知りたい…と純粋に思った様で、次の週、教会の礼拝に出席してくれました。

今は、私以上に神様を愛するものに変えられます。そして私たちは結婚し、今、二人で教会に仕えています。

主に栄光を返します。

♪新聖歌209 「いつくしみ深き」(1) 

いつくしみ深き 友なるイエスは 罪 咎 憂いを 取り去り給う

     心の嘆きを 包まず述べて などかは降ろさぬ 負える重荷を

私にはあるクリスチャンの友達がいます。何でも安心して話せて、しばらく会わなくても会えばまたすぐに心を開ける存在です。彼女は話をする前や後、また話の途中でもよく祈るので、私は神様への祈りが日常の中にある生き方を学びました。また、どんなことがあってもイエス様の十字架を見上げ続けるなら、神様の方法でもう一度立ち上がらせて下さる希望も受け取りました。神様は私に、時には一緒に泣き笑い、いつも相手の祝福と成長を願って祈り合える信仰の友達を与えて下さいました。

こんな友と出会えたのは、私が何かできるとか優れているからではなく、ただ主の恵みとご計画ゆえです。私は子どもの頃から引越しが多く、誰かと仲良くなっても、離れて時間がたてば忘れていくことの繰り返しでした。だから人間関係はその場かぎりという感覚がありました。でも神様が彼女を通して、主にある友達という存在がどんなに喜びで恵みであるか教えて下さったのです。そうして私は次第に、イエス様が「友」であるという事実が、どれほど素晴らしいことなのかも見えようになってきました。

イエス様の言葉に「わたしはあなたがたを友と呼びました。(ヨハネの福音書1515)というのがあります。友達とはお互いがそう思わないと成立しないし、自分とあまりに違いすぎる相手と友達になるのはなかなか難しいことです。神様と人間が対等になれるはずはないし、人間が神様に差し上げられるものなんて、ないに等しいと言えます。

それでも神の子であるイエス様は私たちを親しく「友」と呼んでくださいます。そしてただ呼ぶだけではなく、イエス様は人間となって私たちの所に降りてきてくださり、私たちの罪の身代わりに十字架で死なれ、復活して、神様と私たち人間との懸け橋となってくださったのです。「人が友のために命を捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(ヨハネの福音書1513)の御言葉を体現されたのです。

イエス様は私の心にある醜さや弱さも全て知りながら、それでも「友」と呼んでくださり、どんな状況でも、何があっても変わらずに愛して共にいて下さるお方です。どんなことでも打ち明けて重荷を下ろすことができます。こんな素晴らしい友は世界中どこを探しても他にはいません!

私は自分がいかに自己中心的な人間であるかを実感しています。大切な友達や家族のことも、いざとなったら裏切るかもしれない。クリスチャンであることで不利益を被りそうなとき、クリスチャンじゃない振りをするかもしれない。私を「友」と呼んでくださるイエス様を悲しませたくないし、友達や家族を大切にしていきたいのに、自己中心的な心から行動することが多々あります。だからもっと主(神様)に従う信仰が与えられるように求め、聖霊様に導かれて日々の歩みや選択ができるように祈っていきたいです。

あなたもイエス様を友として歩みませんか?