私が救われた当時、何年も付き合っていた彼がいました。彼はノンクリスチャンでしたが、クリスチャンとして生きるようになった私を尊重してくれ、その後も付き合いが続きました。しかし彼に聖書や信仰書をあげたり神様の話をしても、なかなか関心は持ってもらえませんでした。
やがて結婚のことを考えたとき、神様から「私と彼とどちらを選びますか?」と迫られました。私はいまノンクリスチャンの彼と結婚したら必ず元の生活に戻ってしまう。でももう神様なしの生活には戻れない。でも結婚するなら彼しか考えられない、という思いで葛藤していました。
私は悩んだ末に、彼にそのまま伝えました。「結婚するならあなたしかいないけど、クリスチャンじゃないと結婚できない。」と。心のどこかでは彼が「じゃあ僕もクリスチャンになろう」と言ってくれるかもしれないという期待もありましたが、返事は「何を言ってるのか意味が分からん。クリスチャンになれとか押しつけがましい。結婚なんかない。もう終わりや。」と言われ、それから音信不通になりました。
神様を選んだことに後悔はありませんでしたが、やはり彼からの言葉はショックでした。以前、私は神様から、彼が救われるという約束の御言葉をもらっていました。そこで改めてその個所を読み返したとき、聖書のどこにも「私の伝道を通して」とは書かれていないことに気づきました。私は、彼が他の誰かを通して神様と出合って救われてくれるなら、それでいいと思えるようになりました。そしてつらい時期から少しずつ立ち直りました。
それから数か月して、彼から電話がありました。「僕も洗礼を受ける」というのです。彼は、なぜ私がそこまで神様、イエス様というのかと思い、調べたそうです。その中で自分も救われ、洗礼を受ける決心をしたそうです。私は嬉しかったですが、その時には彼のことを全て神様にゆだねていたので「ただ主は素晴らしい」の一言でした。もし当時の私が彼に伝道して彼が救われたなら、私は彼に対して、心のどこかで自分が伝えたから彼は救われたという高ぶった思いを持ったと思います。だから神様は私とは全く関係のないところで彼を救いに導いて下さったのです。彼の洗礼式は本当に感動しました。
数か月後、私の母教会で婚約式、その数か月後には彼の住む福岡で結婚式をしました。結婚にも御言葉が与えられました。「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという美しさであろうか。(詩編133編より)」神様は私たちが二人とも救われてから夫婦になるという祝福を用意してくださっていました。私は大きな局面で神様を選ぶことができたのは結婚が最初でしたが、そこで神様の素晴らしさを知りました。そして御言葉は真実であると実感しました。色々なことはありますが、これからも神様を選ぶとき、必ずすべてが益となることを信じて歩みたいです。