今月は、救いの証です。
私はクリスチャンホームで育ちました。幼いころはその環境に疑問は感じていなかったのですが、学校などで周りと違うことで嫌な思いをすることが度々ありました。
また私は神様に興味がなかったので、信仰はなく、聖書のこともよく分からないし、礼拝はつまらないものでした。そして洗礼を受けていないことを指摘されるたびにいつも卑屈な思いにさせられていました。
そうして「世の中の人とも違う」し、「教会の人たちとも違う」と思うと、自分のいるべきところにいないような不安定な気持ちでした。
やがて大きくなると、死ぬのが怖いと思うようになりまた。クリスチャンたちは「天国に行けるから死ぬのが怖くない」と言います。「自分もいつかそうなるのかな、あんな平安がほしいな」と思っていました。それで私はがんばって、みんなの真似をして祈り、賛美し、聖書を読みましたが、何も変わりませんでした。
そのうち「神様はいるだろうけど自分には神様は来てくれない。自分はだめな子だから救われない」と、挫折感を感じるようになりました。そして教会にはまったく行かなくなりました。
高校卒業後、親元を離れて一人暮らしをするようになりました。新しい教会なら何か変わるかもしれないと、何度か教会へ行きましたが、続きませんでした。次第に「神さまとは出会えない運命だから」と思うようになりました。そして、ついに神様について考えるのをやめてしまいました。
私はいつも自信がなく不安でした。人生にも希望が見いだせず流されるまま、外面を良くしては、行き当たりばったりの毎日を過ごす日々が何年も続きました。
そんなある時、教会のコンサートに誘われました。そのコンサートや教会の雰囲気が心地よく、また教会に通うようになりました。この時は今までと違い、礼拝で賛美するとなぜか涙が出るのです。最初は子どもの頃に教会に通っていたことを思い出して感傷に浸っているのかと思いましたが、違いました。小さい頃に感じていた恐怖や悲しさは全くなく、本当にただただ涙が出てきました。私はついに神様に触れられ、出会うことができました。私の中で霊が大喜びしたのです。
今思えば、これまで何回も神様に出会うチャンスが用意されていましたが、私はいつも自分を変えず、「平安だけ欲しい」と思っていて、神様による救いを求めていませんでした。そして自分の思い通りに行かないことを周りの人や環境、教会のせいにしていました。でも本当にしんどくて、むなしい日々が続いて「こんな自分を変えたい!」と思った時に、神様が手を差し伸べてくださったのです。
私は救われて、生きることが少し楽になりました。こんなことなら、もっと早く神さまに出会いたかったと思うこともありますが、性格からして、追いつめられないと信じることができなかったと思います。自分では「もう立ち直れないんじゃないか」と思うようなことがあっても、神様はぎりぎりで救い上げてくれます。
今まで根無し草のように、ふらふらと生きてきた私はイエス・キリストを通して、ついに神様の山に植えられました。これからは、しっかりと神様に根差して、一歩一歩、歩んで行きたいと思います。