ハレルヤ 父御子聖霊なる偉大な神様をほめたたえます。
その後、神である主は土地のちりで人を形作り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きたものとなった。神である主は東の方エデンに園を設け、そこに主の形作った人を置かれた。
神である主は人に命じて仰せられた。あなたは園のどの木からでも思いのまま食べて良い。しかし善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それをとって食べる時、あなたは必ず死ぬ。
そこで神である主は、人からとったあばら骨をひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れてこられた。アダムとエバのお話ですが、エバが神様の仰せに逆らい、禁断の実を食べ、夫にも食べさせエデンの園から追い出されてしまいます。それで人は神様の栄光を受けられず、荒野で労し、生きなければならなくなりました。(創世記2章7~8、16~17、22節より)
私の十字架※1とイエスキリストの十字架と云うテーマで証させていただきます。
私は人一倍なまいきで高慢で、人より優位に立ちたい欲望のかたまりでした。自分ながら嫌な性格でした。これは人の力では修復できない十字架です。重かったです。つらかったです。神様さえ憎しみの対象でした。幸せなカップルや家族を見るとひそかにのろいました。闇の中を希望もなく唯々自分を打ちたたきがんばりました。
あるとき、神様のあわれみにより教会へと導かれ、聖霊様に触れられ、変えられました。でも教会はなぜ十字架がシンボルなのかもわかりませんでした。
後になって、はっきりくっきりとイエス・・キリストが十字架の上で手に五寸釘をさされ、わき腹をやりで突かれ、息を引き取るとき「エロイ エロイ ラマ サパクタニ」と叫ばれ死なれました。「わが神 わが神 なぜわたしを見捨てるのですか」と云う意味だそうですが、神のひとり子のイエス様が、父なる神様と断絶を味わわれたのです。こうまでして、この私の汚れた霊肉たましいを贖ってくださった神様の愛にたましいをゆさぶられ、ほんとうに生まれ変わりました。新生です。「人は新しく生まれなければ神の国を見ることはできません。(ヨハネの福音書3章3節)」
今は創造主なる神様を礼拝できる特権、さんびのよろこび、聖書通読、兄弟姉妹の交わり、限りない自由、心の奥から湧いてくる平安、言葉には云い現わせない満ち足りる幸せ、神様の愛の素晴らしさを流し出せる器へと日々成長させてくださることを、信仰によって感謝しています。
栄光在主
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※1(私の)十字架…ここでは「生きる中で背負っていること・もの」を表す比喩表現。