聖書と映画~続・三丁目の夕日~

「聖書と映画 ~続・三丁目の夕日~ 」

 今回は続編である「続・三丁目の夕日」を紹介します。主人公は東大という最高学府を卒業していますが、芥川賞に落選を続けている生活力も金も力もない小説家です。自分の元を黙って去っていったヒロインを忘れられず、自分はあのように美しいヒロインにふさわしいだろうかと自問自答を続け、くよくよしながら消極的に生きています。が、一念発起して芥川賞に臨んだ作品が最終候補に選ばれ一躍マスコミに騒がれるようになります。その小説は、現在踊り子として苦界に身を沈めているヒロインとのささやかな思い出と恋慕の情を切々と綴ったものでありました。ヒロインはヒロインで、小説家として将来のある主人公に自分のように人様から蔑まれるような者がまとわりつくのは迷惑だろう、自分なんかふさわしくないと言い聞かせて生きています。自分が傍にいればきっと迷惑になると思いつめていたヒロインでしたが、その小説を読み、主人公の自分への深い愛情を知ります。こんなにも愛されていたのかと知り、涙ながらに主人公の元に駆けつけていきます。そのヒロインに向かって主人公は叫びます。「俺なんかでいいのか?もしかしたら一生甲斐性なしだ。おまえを幸せにできないかもしれない。それでもいいのか?・・・」深い愛に触れるとき、人はあるがままの自分に気付きます。神様の愛を体感する時にも実は同じようなことがおこります。神様の深い愛に触れられる時、人は自分のあるがままの情けない罪深い実相に気づかされます。神様の愛を受けるにふさわしくない自分でも愛され続けていることが分かった時、その恵みがあまりにも素晴しく、ただ感謝と喜びで涙・鼻水が止まらない、そんな体験をすることがあります。聖書は言います。「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。(Iヨハネ4:8)」当教会は、神様の愛と癒しを受けて、お互いを愛し合い、癒し合う関係を目指しています。(セル活動を行っています)そのような観点からみても、この映画は愛されることの喜びを教えてくれる、私のお勧めの映画です。