6月の 証(あかし)~M.Kさん~

私は結婚して子どもを授かり、最初の数年は子育てに追われ心身ともに休まりませんでした。教会の礼拝にも1か月に1度行けるかどうかでした。日々神様に助けを求めて祈っていましたが、ほとんど聖書は読まなくなっていました。

子どもが少しずつ成長し、私の体も回復してきた頃、また日課として聖書を読もうと思いました。そして聖書を開くと、そこに書いてあることが全然分かりませんでした。日本語としては読めるのですが、その意味が理解できませんでした。

何度読んでもイエス様の救い、十字架の意味が分からず、神様が自分から遠く離れてしまったような途方もない恐怖に襲われました。そしてクリスチャンの友人に電話をし、泣きながら「どうしよう。聖書に書いてあることが全然わからない。イエス様の救いの意味が分からなくて怖い。」と言いました。

すると友人は、イエス様は私を救うため、私の罪の身代わりに十字架にかかって死んでくださり、復活してくださった、それを信じた私たちはもう救われているんだよ、と説明してくれ、私がもう一度救いの確信を受け取れるように祈ってくれました。その時私の目が開かれて、イエス様の救いの意味や、自分と神様との関係がはっきり分かり、心が喜びで満たされました。

それまで私は聖書を読み、祈り、賛美し、できるだけ礼拝も捧げていたので、自分が聖書の核心である救いの意味が分からなくなるなんて考えもしませんでした。でもそれは「私はこれだけのことをやったんだから…」という自負と高慢の心でした。そこに初めての子育てが加わり、「これだけやってきた私が」すごく大変なのだから、神様は助けてくれるべきだと、いつも何かを要求する自己中心的な祈りばかりしていました。確かに神様はいつも私を守ってくださいましたが、私の心はそんな神様の計画や願いには向いていませんでした。神様が私から離れたのではなく、私の心が神様から離れたのでした。

でも再び神様を求めたとき、今までの間違った心のあり方に気づき、神様との関係を大事にしたいと願う心に変えられました。聖書を開く時間も少しずつでき、以前より感動をもって聖書を読むようになりました。

「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイの福音書633)

神様は私たちの日々の忙しさも、人知れない労苦も全てご存知です。ただ、どんな状況にあっても私たちが「それでも神様との関係を大切にしたい!」と願うなら、神様はその「心」を喜ばれて必ず祝福への道を拓いてくださいます。

「わたしは…人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」(第一サムエル記167節)

今も生きておられる神様は、私たちとの現在進行形の関係とコミュニケーションを望まれています。そして私たちが祝福された人生を歩むための秘訣を、神のことばである聖書を通して教えたいと願われている、愛に満ちたお方なのです。